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「10万年後の安全」の三年後の感想 - 原発の経済性という罠 [ドキュメンタリー]


タイトル:100,000年後の安全
原題:Into Eternity(2010年)
監督:マイケル・マドセン

東日本大震災から今日で三年。当時「100,000年後の安全」というドキュメンタリー映画を観に行き、その感想を書いたのだが、なぜかアップするのをためらい今に至ってしまった。
読み返してみたが、そのころと考え方も変わっていなかったので思いきって載せようと思う(ちなみにこの映画を観たのは2011.5.26)。

評価


★★★★☆

感想


渋谷アップリンクで「100,000年後の安全」というドキュメンタリー映画を観た。
フィンランドのオルキルオトという場所に、世界ではじめて高レベル放射性廃棄物の最終処分場(通称オンカロ。隠された場所という意味)が建設されることになった。その内部の映像と関係者たちの証言を中心に、原発から出続ける廃棄物とどう向き合うべきかに迫ったドキュメンタリーだ。

タイトルの100,000年というのは、保管される廃棄物が生物にとって無害になるまでの時間のことで、おもにプルトニウム239のことを指していると思われる。プルトニウム239は半減期が24,000年と長く、それだけの時間が経った後でも文字通り半減するだけなので、生物にとって危険性がなくなるのは10万年ほどかかるということなのだろう。

この映画を観たかった理由はタイムリーであることのほかにもうひとつあって、この映画のテーマのひとつである、10万年後の知的生命体にいかにして放射性廃棄物の危険性を伝えるか、という部分にSF的なものを感じたからだ。
どの辺がSF的かというと、まずは10万年という年月の途方もなさ。西暦でいえば今はまだ2000年ちょっとなわけで、10万といったらその50倍もの数字だ。どのような世界になっているか想像することも難しいが、確実に訪れる未来であり、その時代に生きる生物に向けてメッセージを残さなければならないのである。

そしてどのようにすればそのメッセージが伝わるのかも考える必要がある。
10万年後の人類が今と同じ言語を持っているとは考えにくく、途中氷河期をはさんで歴史や文化の断絶が起こる可能性もある。それどころか人類とは別の系統から進化した生物が、人類に取って代わっているかもしれない。10万年という時間の長さを考えればどのようなことでも起こりうる。なにしろ今から10万年前といえば、人類の祖先がアフリカから広い世界へと旅立とうとした、そんな昔のことだからだ。
未来の人類、あるいはほかの生物が、オンカロに眠る放射性廃棄物を古代人が残した財宝と勘違いして掘り出してしまわないように、この場所の危険性を伝えなければならない。

オンカロでは結局この問いに対して、絵を使うことを選んだ。ドクロマークなど視覚的に恐怖を煽るような表現で危険性を伝え、生物を遠ざけることにしたらしい。

個人的に思ったのは、未来の生物が、分厚いコンクリートによって封印されたオンカロの扉を破壊して内部に入れるほどの工学技術を持っているなら、放射線に対する知識も持ち合わせている可能性が高いだろうし、もしそこまでの知識がないとしたら、たとえ掘り起こしてもたいした移動手段を持ち合わせていないだろうから、それを広い範囲に拡散はできないんじゃないかということだ。楽観的すぎるかもしれないが。

さて、この映画はフィンランドについてのことだが、当然日本でも考えなければならない問題でもある。日本ではまだその場所が決まる気配さえない。
最終処分場の候補地として自治体が手を上げると、まずは文献調査が行われ、その場所で過去に起こった地震などについて調べられる。その後、掘削による概要調査や実際に施設を建設してその場所が適当かどうかを調べる精密調査が行われ処分場の選定が行われる。
文献調査の受け入れだけでも多額の交付金が出るので、財政が厳しい自治体が手を上げてもよさそうなものだが、住民の反対などによって、いまだ最初の段階である文献調査すら行われていない。

処分場の選定においては、フィンランドでは18億年変化のない非常に安定した地層を選んでいるが、地震多発地帯である日本にそんな地層があるのかという問題もある。
というかそもそも現在の人類の建築技術で10万年という年月に耐えうる建築物を造れるのか。まあこれをいったら身も蓋もないけども。ただこのことも、この映画のテーマのひとつだった気がする。

オンカロでは地下500m、トンネルの全長数キロという巨大な施設を建設する予定だが、フィンランドには原発の数が4基(2011年現在)しかないのにこれだけの施設が必要なのである。
対して日本の原子力発電所の数は55基。当然廃棄物の量もそれに比例する。いったいどれだけの規模のものをどれだけの数、作らなければならないのか。

日本では核燃料サイクルというシステムを作り、核燃料の効率的使用と放射能の減少を目指しているが、その中核となる高速増殖炉もんじゅの現状を見れば、それらはもう頓挫しているといってもいいだろう。

実現可能性がどれくらいあるのかわからないが、地下処分場は一時保管所にして、その後掘削技術が発達したらマントルまで穴を掘って、そこに投入して高温と圧力で処分すればいいんじゃないかと思ったことがある。マントルの上には30~60kmの地殻があるので、それより深く掘らなければならない。ちなみに現在人類が掘った最も深い穴は約12km。
こう考えるといけそうな気がしなくもないが、地殻とマントルのぎりぎりのとこに埋めてもしょうがないのでもっと深く掘る必要がある。しかしながら掘削は深ければ深いほど技術的に困難になる。
……やっぱ難しいか。安全性とコストを考えれば、今検討されている地層処分が一番妥当なのかもしれない。

福島の事故が起こり、現在原発に関するさまざまな議論が活発に行われている。そんな中、“現実的”という言葉を持ち出して原発をなんとか存続させようとしている向きもある。
だがその“現実”というのはいったいどのようなものなのか。

福島で原発が爆発し放射性物質が広範囲に拡散し、日本経済全体に直接的・間接的に甚大な損害を与え、人々の健康面の問題だけでなく、精神的にもトラウマに近い傷を作り、日本全体を疲弊させている。
それが今の日本の現実であって、すべてはその現実からスタートしなければならないと思う。なにごともなかったかのように今まで通り過ごすことはできない。なんといっても事故はまだ収束したわけではなく、現在進行形で続いているのだ。

今回の原発事故での一番の教訓は、原発は経済性という観点から考えてはならないということではないだろうか。
電気代の問題やエネルギー供給の安定性、原子力産業が生み出す需要、原発がもたらす恩恵として語られるそういったものはたった一度の大規模な事故ですべて吹き飛び、その後何十年にもわたって負の遺産となり、そしてそれを国全体で背負っていかなければならない。

できるかぎり事故を起こさないような安全管理体制を作ることができればいいのだが、地震が多発する日本でそれをやろうと思ったらとんでもないコストがかかってしまう。
津波対策をすればいいという意見もあるが、今回の福島での事故においては、津波が来る前に高い放射線量を検出していたという話もある。それが配管の損傷なのか計器の故障なのか、発電所内部が爆発でぐちゃぐちゃになってしまったから本当のところはわからないだろう。
ただ津波対策をしたからそれで安全というわけではないということはいえる。要するに日本は他国と比べて、原発に対して圧倒的に高いリスクを前提として持ち合わせているということだ。

そういったことを考えると、やはり原発はなくさなければならないもの、という結論が出る。
ドイツやイタリアでの脱原発の流れがよく取り上げられるが、たとえそれらの国がやっていなかったとしても、日本が率先して取り組んでいかなければならないことだと思う。

この映画のテーマである最終処分場や、建設から数十年が経ち耐用年数の期限を迎える原発の廃炉、先の見えない高速増殖炉への投資、これらの問題は10万年後のような遠い未来の話ではなく目の前に存在するものであり、もう先送りをすることはやめて勇気を持って現実を直視しなければならない。

話が若干ずれてしまった。最後にこのドキュメンタリー映画について。
正直退屈なシーンが結構あった。途中でちょっと寝ちゃったし……。最初から最後までオンカロのことのみで、そのオンカロもまだ建設途中なのでいまいちわかりづらく、映画全体の流れのようなものが見えにくかった。映画のトレーラーで紹介されている以上のものは特になかったかなと。もっと他国の最終処分場についての現状などを交えてドキュメンタリーを展開していけばおもしろくなったような気がした。

このことを一緒に観に行った友人に言ったところ、この映画自体が福島の事故前に作られたもので、一種の啓蒙的な意味合いが強く、事故後に(皮肉にも)世界で最も原子力の現状に詳しくなった日本人から見れば、もの足りなく感じるのもしかたない、というようなことを言われた。
なるほどな、と思った。

ドキュメンタリーとしては星三つだけど、現在の問題を考えさせる契機となる内容なのでひとつプラスで。


***以上が2011年に書いた文章***


あれから三年が経ったが、政治の世界ではいまだに原発推進派という勢力は消えず、経済性と安全性の担保という文言を旗印に、原発の再稼働並びに新規建設を実現しようとしている。
でもそれでは事故前の状況となにも変わらないと思う。本文で述べたようにこの二つの言葉は意味のないものなのだから。

原発再稼働に前向きな首相は、責任あるエネルギー政策云々と言っていたが、いざ事故が起きたときにいったいどうやって責任を取るのだろう。責任を取って内閣総辞職しますとでも言うのだろうか。原発に関しては誰も責任を取れない。

そういえばこのドキュメンタリーの感想を書いていた当時は、原発がないと日本の電力をまかなえないと言われていたが、最初の夏を越えたあたりからその説は影を潜め、次の年からは原発がないと日本の経済は終わるという言葉に変わっていった。原発即時廃止も不可能とずっと言われているが、現実にはこの三年間ほぼその状態で日本はやってきた。

そういったことを考えると、原発なしでも“なんとか”できたというのが実情であり、その“なんとか”の部分を“十分に”に変えていくことが今後求められていくことだといえる。やれない理由を探すのではなくやれることを探す、使い古された表現かもしれないが、きっとこれが大事なのだと思う。

最後に、原発事故後の一時期、ヒマワリが放射性物質を吸い上げて土をきれいにするという話が広まったことがある。たしか避難区域内にあった「DASH村」(日本テレビ「ザ!鉄腕!DASH!!」)でもそれをやろうとしていた記憶が。

結局それは、放射性物質を吸い上げたヒマワリが放射性廃棄物になってしまうだけなので、現実的ではないと否定された(そのほかにもいくつか問題点が)。それでもその説が多くの人の心をとらえたのは、視界一面に咲き誇るヒマワリが土地を浄化するという“イメージ”に癒しと希望を見出し、勇気づけられたからではないだろうか。

この前向きな“イメージ”というものはとても強い力を持っている。だからこそそれを多くの人と共有していくことが、震災後の日本にとって大切なことなのだと思う。


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